広陵町議会 2021-03-15 令和 3年第1回定例会(第3号 3月15日)
それについては、仮に土器類が出てきたということであれば、土器類のどういう年代のものか、その出てきた分布の状況、深さ、それによって期間はかかると思います。最終的な決裁というのは県のほうの、文化財保存会のほうは所定の手続をさせていただいて、県のほうとも調整しながらやる。最終的な決裁はどこがするかという答えということに関しては、県、もしくは上部の機関になるというふうに認識をしてございます。
それについては、仮に土器類が出てきたということであれば、土器類のどういう年代のものか、その出てきた分布の状況、深さ、それによって期間はかかると思います。最終的な決裁というのは県のほうの、文化財保存会のほうは所定の手続をさせていただいて、県のほうとも調整しながらやる。最終的な決裁はどこがするかという答えということに関しては、県、もしくは上部の機関になるというふうに認識をしてございます。
○12番(青木義勝君) あの場所は、赤坂といいますけれども、いわゆる粘土地の、昔、箸尾という名前がついてますわな、土師氏といって、土器をつくる人たちの集落があったら土師氏の集まりで、それが言葉としては流れて箸尾となったと聞いていますので、地盤としては私はそんなに悪くないと思います。と同時に、やっぱり墓があるというところはそういうところです。そやから唯一の高台になっている。
1問目で、学習に活用することができる貴重な文化財等について展示発表すると御答弁いただきましたが、そのことについてふさわしい教材の一つが、埋蔵文化財センターにありますドキ土器kitではないかと思います。 この教材は、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代と各時代の代表的な文化財の一部をセットにした内容となっておりますが、今後の有効活用についてのお考えをお尋ねしたいと思います。
埋葬施設は未調査だが、『山辺郡誌』によると明治年間に勾玉、管玉、金環、土器などが出土したという。墳丘北側の周濠の外堤部が道路拡張に伴い調査され、外堤を分断する溝の中から大量の古式土師器が出土した。古墳の墳形・規模は同じ大和古墳群にある中山大塚古墳に類似し、古墳時代前期前半に築造されたものと推定される。」というふうに看板には書かれてあります。
出土遺物も豊富で、東海系の土器をはじめとする他地域の土器が多数出土する点も注目される。この遺跡周辺には、史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が多数存在し、これらの古墳とのかかわり、すなわち大和政権とかかわりのある遺跡とみなされる。このように、纒向遺跡はわが国における古代国家形成期の状況を知る上で極めて重要」とあります。
晩期には、玉手遺跡では集団土器棺墓、観音寺本馬遺跡では、平地式住居を伴う集落が営まれるようになる。弥生時代には拠点的な大集落として鴨都波遺跡が出現するほか、市内各所に集落が知られるようになり、広範囲に小区画水田が営まれていたことが示されております。 このような豊かな前史を経て、とりわけ古墳時代に入ると、全国的にも特筆すべき遺跡や古墳が多く知られるようになる。
橿原市での体験ツアーでは、歴史に憩う橿原市博物館の見学、出土土器の整理体験、千塚古墳巡り、また橿原神宮での正式参拝や今井町のガイドツアー等、桜満開の中、まさに「ほんもの」を体験していただきました。(所管:企画政策課) [生活安全部] 1 5月16日に、奈良県葬祭業協同組合と「大規模災害時における棺及び葬祭用品の供給並びに遺体の搬送等の協力に関する協定」を締結しました。
これは今、橿原高校の高校生と一緒に土器をつくったりして、いろいろ工夫されているんですけれども、鳥瞰図を見せていただいたら駐車場ができて、あの博物館はとりあえず道路沿いからはとても入りにくい、歩行者も階段が急で上りにくいということで、そこに近づくのに、そこに行くのに行きにくいありようですけども、今後、新沢千塚古墳群、この全体の一環として来館者数の確保をどう努めていくのか。
また、時間の経過により貴重な資料が散逸していく懸念については、現在も古文書でありましたり、あるいは昔から御自宅にある土器や古い写真、資料などについての問い合わせ等、文化財課で対応しておりまして、今後も引き続いてきめ細かく対応していきたいと考えております。
3、まとめ、今回の調査では素堀溝、溝、ピットを検出したほか、縄文土器が出土した。特に、第1トレンチでは、素堀溝とピットを検出したのみであるが、最下層の灰白色粗粒砂層では縄文中期末から晩期の土器が出土した。この灰白色粗粒砂層とその上位の腐植土層である黒褐色シルト層は流露堆積と考えられ、部分的にシルト層と粗粒砂層が混じる箇所があり、その堆積の状況から、南東から北西方向に流下していたようである。
785 ◯清水紀子生涯学習課長 例えば土器をかたどってクッキーを作るとか、あるいは三角縁神獣鏡のチョコレート作りですとか、そういったことを親子イベントとしてさせていただいてますほか、子ども学芸員プロジェクトということで、例えば土器作りですとか、勾玉作りとか、そういったことから少し興味を持っていってもらえるようなということで内容を考えて実施はさせていただいているところでございます
調査では現代盛り土及び中世から現代の耕作土の下に、中世から弥生時代前期のものと推定される土器、破片を確認いたしました。 現在、土器・破片の年代を特定する作業を進めております。今後の予定といたしましては、整理作業並びに終了報告書の作成を埋蔵文化財センター文化財課で行いまして、出土遺物などの整備が終わりました後、11月をめどに奈良県教育委員会に調査終了報告書を提出する予定となっております。
調査では、現在盛り土及び中世から現代の耕作道の下から縄文土器を含む層を検出し、この層から縄文土器などが出土しております。次に、本庁舎西側の部分についてでございますが、こちらは7月29日より掘削を開始いたしまして、8月27日に埋め戻しを完了いたしました。調査では、同じように、現代盛り土及び現代の耕作道の下から中世の土器を含む層とその下に、縄文土器を含む堆積層を確認しております。
瀬戸内海周辺から東海地方に及ぶ広い範囲から持ち込まれた土器が出土しております。広い範囲から物資が持ち込まれる王都なのであります。後に秋津遺跡と名付けられたこの遺跡は、縄文末期、弥生中期、古墳時代前期、さらには古代から近世に至る複数の時代の遺構であると言われています。 「日本書紀」や「古事記」では、秋津嶋宮の場所を室とするとあります。
いわゆる夜景を見せるのに、天井がどうのこうのとか書いていますけれども、実際、例えば考古学博物館へ行って、本物の土器がある。そういうものをゆっくり見て回るのは普通です。あそこにある映像ブース、幾つかいいのがそろっていますよ。いいのがそろっているけども、そんなに座っていないですよ。何を言うてるかわかるでしょう。本物を見に来るのに、わざわざしょうもない映像を見せるその小さいブースに何人座るのか。
まず、朝町資料室でございますが、こちらに保管されているものは巨勢山古墳群で出土した遺物、また京奈和自動車道で調査した遺物、主に土器を中心に、こちらのほうでは今現在、保管をしております。 続きまして、その遺物の所有権はという話がございました。 この点につきましては、発掘調査をした機関が遺失物法に基づいて警察署に書面で出土遺物の内容を届けます。
また、校外学習での積極的な考古資料の活用や、夏休み中の土器整理体験や土器に触れることのできるコーナーの常設を通して、国民共有の財産である文化財を積極的に活用し、本物の文化財が持つすばらしさを体感・体験を通して伝えております。
本市といたしましては、奈良県と連携をしながら、国際芸術家村に市文化財課の移転を検討し、発掘現場から出土した土器や埴輪などの洗浄作業や復元作業を公開、出土品の常設展示を行い、また、鏡の鋳造体験や発掘調査に関するセミナーを開催する、あるいは文化資源交流の拠点として、国際芸術家村や山の辺の道周辺の古墳文化の関連フォーラムを開催する、また、学校教育との連携、天理大学との連携、本市の音楽、雅楽などさまざまなすばらしい
私は、今度の纒向遺跡・纒向古墳群の保存活用計画書を読みましたが、計画策定の目的のところでは、遺跡の面積の広さ、他地域からの搬入土器の出土率が全体の15から30%前後を占めること、かつ、その範囲が九州から関東まで至る広範囲であること、農機具がほとんど出土せず、土木用の工具の出土が圧倒的に多い。
奈良県北西部には、旧石器時代から縄文時代、弥生時代の石器または土器、また、古墳時代に発掘された埴輪や鏡、刀剣など、飛鳥・奈良時代まで埋蔵物の宝庫と言えるのではないかと思います。県内には、博物館や美術館、資料館など、ミュージアムと呼ばれる施設が八十四施設あります。